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温泉施設で『推しの子』を読みました。
そこには、まだ最終巻が入っていませんでした。どうやら既に刊行しているようだったので
Kindle
で買いました。
ーーー
【以下、ネタバレ要素含む】
有馬かなとアクアの行く末を期待していましたが、思っていた結末ではありませんでした。
残念。
まだ読んでない、『かぐや様』の最終巻でも読んで口直ししたい。
ミコちゃんも石黒と結ばれていなかったら余計にダメージを負うだけだけど。
あっちは、命に係わることとかないからいずれにせよそんなにストレスはないはず。
『推しの子』は、第一巻からメインヒロインがやられるという殺伐要素があったからな。そういう作品なんだな。
ありきたりな大団円のありがたみを再認識した。それは多くの読者が「期待」していた展開でもある。だからこそ陳腐にも感じられてしまうジレンマ。
ーーー
【以下、より具体のシーンのネタバレ含む】
あと、最初読んでて話が飛び飛びに感じた。
この場面でこういう心情と思われたAが、なぜ次の場面でその心情からは考え難いそのような行動をとるのかとか(カミキヒカルがアクアと会った最初のシーンとルビーを消すように仕向けた行動のギャップなど、最期の一言で「あいつ(アイ)のためにやれること」を意図しての行動だったと意味付けがされていたことがわかる)。
無造作にさしはさまれた会話シーンとか。登場人物多くて、髪型とかも変わってたりしたから、コイツ誰みたいのもあった。(黒川あかねと会ったシーン、誰かと思った。後にこのときルビーのことを頼んでいたことが明かされる)
上記のように、あとで、出される独白などを参照して再度読み直すことでようやく場面間での整合性が頭の中でつくことが多々あった。最近はそういうのが流行ってんのかな?
アクアとルビーの仲良しシーンとか、イチゴプロの女社長との家族のつながりシーンとかも、アクアの結末を盛り上げるための伏線だったんだな。
神を称する女の子が死に際のアクアの魂と会話して、君はこんなに愛されて、こんなに頑張ってきたじゃないか、と具体のシーンを挙げて読者の涙を誘いにかかっているところは少々その作為を強く感じた。
最期のMEMちょの語りが、著者のメッセージなのかなと感じた。おまけって書いてあったけど。
アイドルと推す者に幸あれ的な。
ルビーをアイドルとして引き立てようと表現している意志は強く感じた。それを取り巻く人間の愛憎によってその存在をより際立たせていたように思う。一方でその「星」に慣れないと自認している人々のその心情そのものも主要コンテンツとして打ち出されていたと思ったし、それを鑑賞して楽しんだ。
あまり対面以外で叩くのは好きじゃないので、以下略。